★ 『隠者の宝箱』のコーナーに『中尾哲彰』さんの1点物の作品を出品するにあたり、『銀河釉』が生まれる切っ掛けや、中尾さんの作陶に対する思い・考え、などを取材したインタビュー記事をご紹介します。 こちらの記事は、2006年に地元県内で個展を開催された際に、地元タウン誌で紹介されたインタビュー記事です。
「愛と自由」のメッセージを焼き物に託す
〜 世界が絶賛した銀河釉 〜 中尾哲彰
優しい若葉をイメージさせる「春銀河」、濃い夏の夜空に星をちりばめたような「夏銀河」、秋の装い感じる「秋銀河」、雪や霜の白や銀が織りなす「冬銀河」、濃い緑色や銀、茶など多彩な色合いの「睦月銀河」。5つの色合いは、無数の星が輝く宇宙の広がりを連想させる。他ではまず見ることのない、この煌めきこそが「銀河釉」(ぎんがゆう)の魅力だ。
- 学者から陶芸家へ
「私は、学者になりたかったんです。」
陶芸家・中尾哲彰さんの作品には、大学時代に哲学を学んだ影響で「芸術を通していかに人類にメッセージを託すか」というテーマがある。
昭和27年、武雄市山内町に生まれた中尾さんは、哲学や社会学の学者を志した。
「自分たちの時代は、学生運動が盛んな時代でした。当時、私は学者になりたいと思っていました。いざ、大学に通うと自分が描いていた大学や学者のイメージと現実の姿が違っていたんです。自分のやりたいものとのギャップを感じて悩んでいた頃、やきものを作るおやじとか職人さんの無心に土と格闘する姿を見て、陶芸家を目指そうと決心しました。それから、大学を辞め家業の焼き物づくりを始めました。」
「現在でも、哲学や社会学は当時の大学の教授やゼミの仲間と続けています。」という風貌からは、焼き物職人というより大学教授のような印象がある。
- 「天体に輝く銀河」のような作品をつくりたい
「天体に輝く銀河」のような作品を作りたい。そんな思いから、「銀河釉」は誕生した。
「銀河釉を開発した切っ掛けは、22年目網膜剥離という病気になった時のことです。何も見えずに病室のベッドで、盲目の生活を一年ほど過ごしました。精神的にも辛く、苦しかったですね。このまま、焼き物を続ける事が出来なくなるのではという不安もありました。そんなある日、心の中に『夜空の星、天体に輝く銀河』が浮かんで来たんです。不思議な事に、その星に救われる思いがしました。それで、銀河のような作品で、自分と同じように辛い思いをしている人たちに元気を与える事が出来るのではないかと考えました。私は、むしろその思いに救われたのです。」
- 銀河釉の誕生
「銀河釉」とは、釉薬の中に含まれる様々な金属が1200度〜1250度という高温の窯の中で結晶化したしたもの。耀変結晶釉(ようへんけっしょうゆう)で、中尾さんが自ら「銀河釉」と名付けた。
「網膜剥離の病状が少しずつ回復し、銀河釉の開発のために世界中の文献を読みました。そして、何万回も釉薬の調合を行い、データーをとり研究を重ねました。それは、もう化学実験ですね。釉薬の研究には5年。商品化出来るようになって15年になります。窯の温度も重要で、自分の思い通りの色を出すのは難しいですね。」粘り強い研究から生み出された「銀河釉」には、ただただ驚嘆するしかない。
「銀河釉は宝石と同じなんです。たとえば、ルビーの赤とエメラルドのグリーンは色が違いますよね。金属分子の結合状態がが違うんです。結合のさせ方で色が違って来ます。そのために、窯もそれぞれに必要になるんです。」玉峰窯には、5基の窯があり色ごとに稼働させているというのもうなずける。
中尾さんは、
「私の中には、芸術家と科学者の両方の姿がある。」という。窯は、不確定要素が多い。そのため、思い通りの色を出すのは難しい。しかし、そこには妥協はない。それすらも「コントロールしたい」と科学者の顔を覗かせる。
美しく結晶化した作品は、品格があり宝石のようだ。しかし、その美しさには科学的な知識だけでなく、自然の変化を読み取る技も必要とされる。納得のできる作品づくりに格闘する日々はこれからも続く。
- 人類史に残るメッセージを伝えたい
「日本画家・千住博氏のインタビューのなかで『ニューヨーク在住の芸術家は絶望の淵にある』という話がありました。千住氏は『9・11同時多発テロ以降のニューヨークにおいて、芸術家はテロを起こした側、テロを受けた側の人々に、人間としての思いやりや癒しを伝えなければならないという使命感が無い。』というのです。『テロ後の傷ついた人々の心を癒し、勇気を与えることが出来たのは、20世紀前半の例えばセザンヌやガウディらの作品であり、そしてまた歴史に残る芸術。つまり、芸術とは国境、宗教、思想の壁を超えて、人に勇気や希望を与えたりするメッセージがある』という内容でした。私も同感です。そういう意味でも『愛と自由』への思いを銀河釉に込めてメッセージを伝える意味は大きいと思います。」
そう熱く語る中尾さんは
「焼き物という芸術においても、他の人に出来なかった新しい技法の意味は大きいと思う。人類史に残るメッセージを伝えることが、自分の姿だと思っています。」と続けた。
- 世界を目指して・・「美」は国境を超える
中尾さんのプロフィールをみると、海外での受賞歴に舌を巻く。中国、イタリア、スペイン、フランスとずらりと受賞歴が並ぶ。
海外へ目を向けたのは、10数年前。その切っ掛けとなったのは、中国の北京芸大の張教授との出会いがあった。
「教授は、私の作品を高く評価されました。しかし、その頃は国内の公募展でも上手くいかない。作品を売ろうと思っても、売れなかったんです。私は、教授にそのことを話しました。教授は、『日本はまだまだ文化の厚みがない。芸術先進国のヨーロッパに出品しなさい。世界を目指して頑張れば、きっと世界のトップクラスに入るだろう』という助言をされました。」
中尾さんは、その言葉に押され、ヨーロッパを中心に公募展に出品。2003年には「フランス・パリ・美の革命展inルーブル」の陶芸部門でグランプリにあたるプリ・デ・リオン(ライオンの門賞)と同時に平和のメッセージが高いとして、トリコロール芸術平和賞に輝いた。
「『愛と自由』と言うメッセージが国境を超えて伝わり、これまで取り組んできたことが間違ってなかったと確信ができました。」とそのときの喜びを語る。
- 茶道家元との出会い
「銀河釉」の茶道具を手に取った人は、まず驚くだろう。とにかく軽いからだ。中尾さんは
「水指などは、水を入れて使うもの。水が入った時の重量を考え、人が持つことを前提に作っています。」と、焼き物としての美しさだけではなく、道具として使い手に対する心配りにも研ぎ澄まされた美学がある。
「茶道という伝統の世界において、新しい風を吹かせたかったんです。」中尾さんは
「茶道とは『一期一会』美しいものを、美しいと感じる心は、芸術も茶道も同じだ。」と考えている。
遠州流の茶道家元と出会ったのは、茶道具づくりに試行錯誤をしていた頃。
「5年前、ある方の紹介で遠州流の家元とお会いする機会ががありました。ご紹介頂いた方からは、『家元は人間性と焼き物の両方をみられるので、認められなければお茶道具は諦めろ』と言われました。それから、家元にいろいろご指導を頂いています。」
現在では、遠州流の茶会をはじめ、2005年「愛・地球博」会場の「プラチナの茶室」で銀河釉が使われるなど話題になった。家元からは
「新しいものは時間が経たないと評価が出ないと思うが、頑張れば100年後、200年後、歴史に残るものができるから」と激励され、今後も茶道具作りにも力を注ぎたいと意欲的だ。
その他、中尾哲彰さんに関する記事 も宜しければ参照下さい。。
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『中尾哲彰と言う男。。。』
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『中尾哲彰と言う男。。2』
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『銀河釉の世界へ。。(MOVIE)』
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